福々ぷくぷく
猪苗代から見た磐梯山です
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2年が過ぎようとしている今

もうすぐ2回目の3月11日を迎えます。
2年が過ぎようとしている今、私が思うことを少しだけ書いてみようと思います。
ただ、これは福島市の西部に住む私の思いであって、
津波の被害にあった浜通りや、
住むことを許されず避難している人たちの思いとは違うと思います。
同じ福島市に住む人でも思いはそれぞれに違うと思います。
どうか、そのことを心に留めておいていただければと思います。

*****

2年前、私の故郷に放射性物質が降下した。
それからどれくらいだろう、何を見ても悲しかったのは。
山を見ても、花を見ても、木を見ても、
何を見ても悲しかった。
こんなに美しいものをよくも傷つけてくれたなと、
私は悲しみと怒りの感情で、何を見ても涙が流れた。
元にもどしてほしいと思った。
どうして、対策をとってくれなかったんだろうと恨んだ。
そして、自分自身も責めた。
ずっと前から気づいていたんだ、安全だとは思っていなかった。
でも、結局、何もしなかったんだ。

傷ついた故郷に私はひれ伏して謝りたかった。
人間がしたことを謝りたかった。

特に、自分が生まれ育った実家に行くのが辛かった。
思い出がいっぱいつまった周りの景色を見ると涙があふれた。
ああ、ここも傷ついたのだと・・・。
だから、つらくてつらくて実家に行くのを止めた。
見たくなかった、つらくて見ることができなかった。
胸がかきむしられるような苦しみだった。

美しいものはずっと美しくあってほしかったと思った。
たくさんの懐かしい思い出を思い出すこと自体がつらかった。

でも、嘆いてばかりはいられなかった。
とにかくここに住んでいていいのか、
どんなふうに暮らしていけばいいのか、
それを調べなければと思った。

ずっとネットをやっていた私は検索を開始した。
すると、
武田邦彦氏とか木下氏とかがヒットした。
私も2011年の4月ごろは彼らのブログを読んでいたのですよ。
でも、すぐにヘンだなと思った。
どこがどうヘンなのかははっきりとはわからなかったけれど、
この人たちの文章には品性がないなと思った。
そのうち、言っていることが事実と違うことがはっきりしてきた。
そして、私は、私の直感ってすごいなと独りでニンマリした。

半減期や預託実効線量などのキーワードで検索をかけていたら、
田崎先生のサイトにたどり着いた。
これが超ラッキーだったわけです。
目からうろこ状態でした。

4月の末にガイガーカウンターを手に入れた私は、
どうしたらきちんと測れるのか調べようと思った。
そして、なんと、これまた超ラッキーなことに、
早野先生のツイートに出会った。

もうここからは、お勉強の毎日。

今まで、あんな勉強したことがあっただろうかと思う。
自分でやる勉強は苦痛ではないんですね、これが。
たくさんのひどい言葉も浴びた。
何度も心が折れそうになった。
でも、同じような境遇の中で発信し続けている人たちに支えられた。
県外からエールを送ってくださる方もたくさんいた。
そして、故郷が受けた傷は、ひどいところもあるけれど、
思ったよりも傷が浅いところもあることを知った。

放射性物質も放射線量も、あるか無いかではなく、
つまりは「量」の問題なのだと気づいたときが、
私の転換点だった。

http://togetter.com/li/268483

私はやがて、現実を受け入れるようになっていった。
起きてしまったことを何回悔やんでも憎んでも、
何も変わらないことに気づいた。
この現実を受け入れて、立ち上がるしかないのだと思った。
現実を受け入れることと、現実を容認することとは違う。

どうか、その違いをわかってほしい。

原発事故が起きてしまったという事実を変えることはできない。
何百回悔やんでも恨んでも、その事実は変えられない。
元に戻せと叫んでも、叫びでは元には戻らない。
だから、事実を事実として受け入れて、その上で立ち上がるしかないのだ、
そう思えたとき、
私は、傷ついた故郷が以前よりもずっと好きになった。
もう涙は流れなかった。
たしかに傷ついた。
でも・・・、
故郷は変わらずにそこにある。 

私は、もう、故郷の景色を見ても涙は流れない。
目を伏せることもしない。

故郷はそんなにやわじゃない。
以前と同じように、そこにある。


***** 

 

2015年3月13日 追記

 

上記の記事にお立ち寄りくださったみなさま、ありがとうございます。

この記事は今から2年前の2013年2月に書いたものです。
当時の私の気持ちを書きなぐったと言っていいかもしれません。
誰かに読んでいただこうと思って書いたというよりは、
当時の自分の気持ちを記録しておきたくて書いたものです。

福島県は本当に本当に広くて、
冬にいわきから会津まで移動すれば、これが同じ県なの?
と思うくらい気候もそして歴史にも違いがあります。
だから、
私がここで言っている故郷は、
私が生まれ育った福島県の中通り北部を指しています。


原発事故によって受けた被害にも大きな違いがあります。
福島県全域が同じような被害を受けたわけではなく、
大きな被害を受けたところ、
事故前とほとんど変わらないところ、それぞれです。
それで、
「福島は」とひとくくりにしないで
「福島のどこどこは、こうなんだな」と見ていただけたら、

私はうれしいです。

以前と同じ暮らしができているところ、まだ、変わらないところ、
そういうところが混在しています。
「4年前から何も変わらない」という言葉が
枕詞のようにメディアで言われたり、
著名な方がそう発言したりしていますが、そうだろうか?と思います。

変わったところがたくさんあります。
放射線量は我が家の周りで、2011年5月の1/4になりました。
我が家の周りは除染はしていませんが、自然にこれだけ下がりました。
そして、
この4年間、たくさんの人たちが福島を諦めないぞと努力してきました。
農家は作物に放射性物質が移行しないように、土や水の管理をし、
とれた作物の検査をし続けました。
研究機関はどうすれば移行が防げるか検証しました。
子どもたちが安全に学校生活をおくれるようにと校庭の除染をし、
被曝を少なくする努力をしてきました。
他にもたくさんの試みが実践されてきています。

懸念された4号機の使用済燃料プールの燃料も
無事にすべて取り出しが完了しました。
このように、変わらないように見えても、
少しずつ少しずつ前進しているところもあります。

だから、全てが
「4年前の事故直後から何も変わらない福島」ではないのです。

「4年前から何も変わらない福島」と呪文のように語られることは、
人々の努力も自然が自ら行う自然治癒力も、
そういうもの全てを否定されるようで、私にはとても辛い言葉です。
前進したところ、
まだそのままのところ、
当時よりも後退したところ
それが混在しているのが福島なのだと私は思います。

そして、私が住む県北の山々、安達太良連峰も吾妻連峰も、
南北に流れる阿武隈川も、
自然は、
2011年3月以前と変わらずに四季折々の美しい姿を見せてくれます。

去年、訪れた会津の紅葉も見事でした。

自然はやわではないなと実感します。
人間がオタオタとあわてふためいていたときにも、
春が来れば新芽を出し花を咲かせ、秋になれば紅葉し、
そして、冬を迎える前には、次世代のために潔く葉を落とし、
悠然とそこに立っています。

私が目にする県北の山々や川は以前と変わらずにそこにあります。
山々の上にある空は以前と変わらないほんとの空です。
私の目にはそう見えます。

このような多様な福島を
実際にその目で見ていただけたらと私は願います。
事故前と全く同じではないかもしれないけれど、
でも、自然は悠然とそこにあり、
以前と同じ美しさを見せてくれます。
たくさんの人が、諦めずに「がんばった」結果もそこにあります。

あらかじめ用意された憐憫の情でではなく、
フィルターを通さない目で、
「福島」を見ていただけたらと思い、

追記を書いてみました。

       

 

 

       
     

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